舞踏と詩

2008年4月19日 芸術
舞踏は、「詩」を舞台芸術に置き換えたものだと、つねづね思っていた。

そして最近、舞踏家と詩人には妙な共通性があることに気付き始めた。

誰もが土方巽や大野一雄になれないように、誰もが中原中也やランボーやディキンスンにはなれない。
そこのところを、意識的にか、無意識的にか、理解する過程をすっ飛ばして、才能のない輩が自らを「舞踏家」「詩人」と称して、活動を繰り広げる。自意識ばかりがあふれ出る、鑑賞に耐えないものを作品と称して、発表し続ける。

なぜ、このようなことが起きるのかと考えてみると、舞踏家と詩人は、いずれにしても職業として成り立たない分野だからかもしれないという結論に至る。
舞踏、もしくは詩のみを生業としている人は、いないだろう。
才能があって、評価が高くたって、アマチュアなのだ。
だから、才能がなくて、誰にも認められていなくても、自分で名乗りさえすればその瞬間から、舞踏家になり、詩人になれる。
一見、伝統的なテクニックの修練を積まなくてもできちゃいそうなそうなところも、自意識過剰な表現したがり屋さんには、手軽でよいのかもしれない。何しろ、両分野とも、「前衛」であることが身上ですもの。

あははははは。

しかしながら!
舞踏家と詩人には、大きな違いがあることはある。
それは、舞踏家はおおむね長生きで、詩人は早世する傾向にあるということだ。
やっぱり、ヒトって、長持ちさせるためには、体を動かさなきゃだめらしい。

本日は次女の小学校にて、常任委員会・校外委員会に出席。つまらない会合に出ると、ついこんなことを、つらつらと考えてしまう!

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