幼年期の快楽

2008年7月19日
 ベルナール・フォコンはグット‐ドール(金の雫)通りに住んでいる。活気のある界隈で、床屋は日曜日も働き、通りの戸口は開けっ放し、その戸口からはラテン音楽が聞こえ、人々は窓越しにおしゃべりをする。子供たちは紐の切れ端でつないだ犬の後を追いかけ、3足10フランの靴下が売られ、食物や肉体や言葉などあらゆる種類の物々交換が行われる。曲がりくねった、としか言い様のない暗くて狭い階段を上ると、そこに、通りとは別世界の空中王国がある。別世界とは言っても、カーテンで遮られているのではない。何も隠さず、秘密は散らかして見せ放題、そんな偏執狂の巣窟だ。
 壁には焦げ茶色のビロードが張られ、レースのテーブルクロスが掛かっている。解体された硬い身体や、重度の傷痍軍人は、通せん坊をしたり、マットレスの上でリハビリをしたりしている。ファシアノスの絵の青い男たちは、ラケットの振りを減速させながら煙草の煙を吐き出している。木製の額縁の中では、少女が干草を積んだ一輪手押し車の上に頬を当てて眠っている。水平服を着た、首のない子供のマネキン人形は両腕を差し伸べている。鏡は燃える火の金色の輝きを反射し、映る人の顔ははっきりと定まらない。足音は絨毯に消される。物憂げな猫でもいそうな気がするが、そこにいるのは、帽子の下に金髪の房をのぞかせ、過度にきらめく青色のガラスの目を持つ子供たちだけだ。上質な磁器の紅茶道具一式が、もう使われなくなったミシンの上に置かれている。4時だ。ぼくたちはココアを温める。牛乳の中に本物のカカオの粉を溶き、牛乳の膜も一緒に大きな白い椀に注ぐ。パン切れにバターをぬり、とても水っぽいイチゴジャムをゆっくりとのばす。しかし、このおままごとには子供が1人もいない。大人が3人いるだけだ。
 いや、子供はいる。収集されてあちこちにいる。蝋やセルロイドでできた頭が一列に並べられ、ガラスの覆いの下では少女が笑っている。ポスターに描かれた子供、雑誌の広告写真に写る子供、プランターの土の中に寝かされている子供もいる。家族の元を離れた子供の体はめったにない宝物だ。一枚の写真や不道徳な思い出となる。ぼくたちはジョニー・アリデイの古い45回転のレコードを聞き、古道具屋で見つけた、若い母親に母乳育児を勧めるレコードの大げさな声色に笑う。外では、物干し場に洗濯物がはためき、少し離れたバルコニーに黒っぽい顔がいくつか現れ、敵意のない眼差しで、教養ある幼年期が生き延びている、この奇妙な世界を眺める。
 ここに住む大人は、幼年期を収集するだけではない。素肌に衣服を着るように、彼は幼年期を身に付ける。綿の下着、ジーンズ、テニスシューズ、小さな赤いネクタイ、ボタンホールに結びつけた飛行機の形の鉛筆削り。ベルナール・フォコンは28歳だが、どんな小さな素振りにも、ピーターパンの髪の毛にも、ピノキオの横顔にも、おとぎ話の王子様の歩き方にも、幼年期が現れる。それは生活のスタイルのようなもので、超然とそして毅然とした穏やかさがある。友人の一人、ジャン=クロード・ラリウの写真の中で彼は、司祭の扮装をし、弟と眠り、所有するすべてのマネキン人形に囲まれている。これらの写真は、彼がマネキン人形を、祖母の枕元や、リュベロンで子供精神病院を管理する父親と母親を交えた家族のテーブルで撮影したときに、撮られた。
 屋根裏の物置では、墓場用の小天使が、すり切れた洋服と木製の爪を付けたマネキン人形に囲まれ、銀色の月桂冠の間を縫うように飛んでいる。棚の上では、歯をカタカタならす頭蓋骨のおもちゃが、ねじを巻かれるのを待っている。床の上には、子供のころに描いた、異様に深刻そうな自画像や、暗い風景画に張り付けられたキリスト像、そして4年前に描いた、半透明な水彩タッチの、波間に現れる子供たちの絵が置かれている。
 さて、ここでようやく、幼年期に夢中のこの大人は、儀式的とも言えるやり方で、自分の写真を見せる。訪問者を窓の近くへ導き、上部の欠けた円柱の柱頭や、ビロードの小さなクッションで覆った墓石タイルに座らせる。そして低いテーブルの上に、背景やショーケースの役目を果たす白い画面のような2枚の真っ白い紙を置き、慎重にへりを持って、写真を取り出す。まぶたのほんの些細な動きも見逃さない彼には、写真を観察して発見することに喜びを感じていられる時間の長さが、正確にわかる。しかし、彼の写真に飽きることなどあり得ない。その一枚一枚が、幸福を、斬新な彩色を、快楽の思い出を、ほかの写真への待ち切れぬ思いを、あおり立てる。
 彼が片田舎の洋品店のショーウィンドーで手に入れ、収集したこれらのマネキン人形たちは、とらわれの身となり、こぶしと手のひらを縛られ、頭と体を切り離される。そして、入念な手つきで服を着せられ、脱がされる。これらの写真を売るようになる前、ベルナール・フォコンは、市場でのマネキン人形の取引きで生計を立てていた。その際、大人の人形は売り、子供の人形は取っておいた。このようにして200体近いマネキン人形が、夏の間は3ヶ月、冬の間は2週間ずつを2度、彼が仕事をしに行く、アプトに近い両親の家に預けられている。
 ひとつの場面を撮影するのに、時には一週間もかかることがある。なぜなら、そこで行われる正真正銘の演出において、彼は美術担当であると同時に、衣装係であり、小道具係であり、撮影技師であるからだ。動きを固定した映像、野外劇場、命を吹き込まれたデッサン、死人による活人画。プロジェクターと反射鏡を伴う、映画用の照明。現場の統制は、時として100メートルにも及ぶ。たとえばナポレオンの戦場場面。子供軽騎兵の死体の山の中から、炎をくぐりぬけ、裂けた服をまとい、頬を汚した、本物の子供が姿を現す。ベルナール・フォコンは、写真家であるというだけではない。映像の発明家、幻影使い、静止映画の監督でもある。
 モデルを選んだ後、創作のための最初の手段となるのが洋服だ。フェティッシュな入念さをもって、彼は洋服を広げる。半ズボン、ロンパース、ストライプや海のモチーフをプリントしたTシャツ、トレーニングウェア、パジャマ、母親が編んだ赤いセーター。ひも靴の上で白い半靴下がたるんでいれば、さらに良い。フォコンは、子供の遊びやヴァカンスを演出するが、罰や悪事の場面は決して描かない。彼の世界は「みちしるべ」シリーズ(フランスの児童文学)や、「五人と一ぴき」シリーズ(イギリスの児童文学)の挿絵から来る。子供を楽しませるもの、子供が夢見ること、子供の純粋な喜びの時間を、彼はとても正確に再現する。ストローでディアボロ(シロップ水)を飲んだり、ブリオッシュの中にフェーヴ(陶製の小人形)を見つけたり、色とりどりの包み紙から小さなチョコレートを取り出したり、お楽しみ袋の中で見つけたおもちゃのカメラで写真を撮ったり、滑り台で遊んだり、凧と一緒に空を飛ぶのを空想したり、小えびを釣りに行ったり、さくらんぼを摘んで食べ、「鳩の心臓」(さくらんぼの一種)の赤みが頬を染めるのを感じたり、マッチを擦って火遊びをすることは、実際、なんと楽しかったことだろう!
 ベルナール・フォコンの写真の中では、火が燃えている。ナポレオンの戦場を模した場面はもとより、恐竜が出てきそうな洞窟の場面では松明の明かりが壁を照らしているし、生けにえとなった子供の体を火が包む場面もある。火と、模倣行為が燃えるのだ。「さあ、映画を撮ろう」、フォコンは小さな友人たちにそう言うと、プロジェクターや脚付きカメラを持って納屋にやってくる。わらの中で抱きあう裸の子供とマネキン人形に、このお山の大将は指示を与える。子供たちが三色旗を振る、水上ののぼりの下や、花飾りがたくさん付いた演壇の上で、喜びは燃え上がる。そして不吉な兆しもまた、絶えずつきまとう。死体となった子供たちは、実は子供特有の深い眠りに身をゆだねていて、その血液は体内を循環し続けている。かと思うと、突然、蝋の腕が、小さな黒いピストルを自分のこめかみに付きつけている。誰が、誰のことを、夢に見ているのだろう? どちらの空想が、もう一方の空想を生み出すのだろう? この物語の真の幻想とは、一体、何なのだろう?
 フォコンは、めったに高級なマネキン人形を登場させない。蝋人形の病的なスーパーリアリズムよりも、プラスチックやセルロイドで出来ている、50年代・60年代のマネキン人形の抽象芸術を、彼は好む。その色彩は、ことさら強調され、まがい物じみ、昔のグラビア誌のようにどぎつい。もしくはその逆で、着色写真のように色あせ、ぼやけている。彼の映像の倒錯は、時おり生身の子供をマネキン人形の間に混じらせること、そしてその体を、色紙テープで飾ったトーテムポールに縛りつけたり、乱痴気騒ぎの「最後の晩餐」のテーブルクロスの上に横たわらせ、花や葡萄や砂糖菓子や水瓜の薄切りで飾り立てたりして、マネキン人形の餌食にすることにある。夜の闇の中、二人の子供が大きなレインコートの中で身を寄せ合う。キャンプファイヤーの火が、二人の目の中で赤々と燃えている。最も純真な、心のときめきだ。(…)
エルヴェ・ギベール ル・モンド誌 1979年4月5日
t.p.訳
 昼食後、のんびりと横になって、雑誌に目を通す。いや、もっとおあつらえ向きなのは、長いこと読んでいなかった古い漫画本だろう。時間がぼんやりと引き伸ばされる。うだるように暑い8月のある日、午後の二時か三時。何かを無駄にしているという良心の呵責は、ひとかけらもない。ともかく、こう暑くては散歩もできない。鉤針編みのベッドカバーは足元へ押しやられ、体が軽くなり、ふわりと空中に浮かんでいるように感じる。世の中から離れて、幸福というより至福を味わい、自分の存在は無に等しい。近くの道を通る自動車の通行が、唯一、一日にリズムを与えている。曲がり角で、エンジンのうなり音が弱まるので、運転者が車を止めようとしているのかと思うが、その後、溶けたアスファルトの上で再びアクセルが静かに踏み込まれて、先ほどの感覚が打ち消される。みんな何処かへ行ってしまう。結構なことだ。しかしながら、世界から隔離されて、大きな気泡の中でぽっかり浮かんでいても、その曲がり角の減速がどうも気になり、ありもしない危険を想像してドキドキしながら、ビコの冒険シリーズ(アメリカの漫画)の灰色と赤の二色刷りを味わって読む。アメリカのちびっこが野球をする空き地には、古きよき平和がある。

 これだけ多くの自動車が同様の減速をして曲がり角を過ぎて行くと、もはや、あらゆる危険があり得ないことのように思えてくる。しかし、まさにその時、何台目かの車が、少々大げさな速度の落とし方をする。エンジンが加速するまでの時間が長引く。最悪だ。安らかなエンジン音の代わりに、タイヤが地面をこする弾力的で従順な音がして、軟らかなアスファルトへの疾走は立ち消える。もうわかった。すべてが失われたのだ。だらだらとコーヒーを飲むことも、疲れたとか、ちょっと頭が痛いと言うことも、暑すぎると文句を言うことも、古い漫画本を選ぶことも。正当ではないが、まぎれもない午後の休息を手に入れるために払っていた細心の注意。それが今、偽善的な静寂の間に、すべてずたずたに切り裂かれた。

 というのも、これから展開される儀式が全部わかっているからだ。タイヤの軋み音が和らぐと、人目をしのぶかのように車のドアをそっと閉める音がして、この訪問が不意打ちであることがわかる。抑えた声が聞こえてくるが、小さすぎて誰だかわからない。ここでもやはり、偽善は矛盾するらしい。待ちあぐんでいた客というのは、得意げに騒々しくやって来るものだが、それはどうしてなのだろう? 午後の休息を奪う客は、門の鉄柵の辺りで修道僧のように遠慮深くなるというのに。謙虚な慎み深さを持ち、サンダルのかする音をさせながら、平気でこの平穏な一日を踏みにじるというのに。

 まもなく、休息を中断するという不機嫌さに加えて、このように不愉快な感情を抱いてしまったことへの後悔も覚えなければならない。この胸のむかつくようなとげとげしさの原因の半分は消化のもたつきで、もう半分は当然、身勝手で偏狭な性格だ。だって、親だか、友達だかが、不意を襲って喜ばそうとして来ているのではないか!?

 間違いない。多分そうだ。もう少ししたら。しかし今は、こう言わざるを得ない。エンジンの意地悪な沈黙や、減速するタイヤのゴムが地面にするキスの音や、深い思いやりからそっと閉められる車のドアには、ナイフ殺人や完全策略の、優しさを装った残忍さがあるのだと。

フィリップ・ドレルム『台無しになった、午後の休息』(LA SIESTE ASSASSINEE)より
t.p.訳
 まさに、あと数メートルでブラッスリーの入り口だ。並んで足早に歩いてきた。外は寒く、冷たい風から逃れられるというだけで嬉しかった。ポケットに手を入れ、互いに震えながら吐く白い息の合間に、途切れ途切れの会話しかできないでいた。それなのに、いざとなると、いつもこうだ。歩調がゆるみ、歩道で立ち止まりかける。突然くつろいだ調子で、おしゃべりが弾む。知らず知らず、相手を先に通そうと、後ずさりできる体勢をとる―― それもさりげなく。いくら会話に夢中でも、作法はきちんと守る。しかし、二人のうちのどちらがより礼儀正しいかを競うなどという高潔なゲームのためだけにこんなことをしているのではない。ドアまであと二,三歩なのに、本当に不意に、歩道でしゃべっていたい気持ちに駆られるのだ。メニューを読んで中に入る決心をした他の客たちを通すために、わきに寄らなければならないが―― もっとも彼らにしてみたら、先を譲ってもらえそうだから入ろうと決めたのかもしれないが。もちろん、店に入ってから話を終わらせることだってできる。だけど違う、そうじゃない。腕をさしのべ、お先にどうぞと相手を促しながら、急にあわただしくなる最後の言葉のやり取りで、その話題を締めくくらなければならない。もはや、ちっとも寒くはなくなり、映画の結末について、もしくは、メナルド氏とやらがしでかした最近の失敗について熱く語る。すべてが言い尽くされると、口元には、お互い義務を果たしたという親しげな微笑が浮かぶ。

 しかし、実際のところ、最後の数メートルの歩みが遅くなるには、深いわけがある。そうすることで、半開きのドアからもれてくる店の熱気や、そこに踏み入れる最初の一歩への心の準備をしているのだ。ぶつかり合う皿の音、「すみません、少々お待ちください」、「濃いブラックコーヒーをふたつ」、「お勘定」、「ぼくの脳みそ料理が来た」、「さあ、奥のお席へどうぞ!」。ああ、そうだ、この、グリビッシュソースの匂いのするおしゃべりのざわめき、すぐしわくちゃになる紙のテーブルクロス、そこへ油と酢の小瓶セットが置かれ、窮屈そうに上着を脱ぐ動作、その上着をすでに山積みとなっている洋服かけの上に重ねる、これらすべての過熱した目まぐるしさに襲われるのだ。うっとりするではないか。灰色の冬の真っ只中、凍りつきそうに寒い歩道で、この目まぐるしさへの憧れを募らせた。ゆっくり歩きながら手に入れた憧れだ。

フィリップ・ドレルム『台無しになった、午後の休息』(LA SIESTE ASSASSINEE)より
t.p.訳
  絹のように柔らかいだぶだぶの上っ張りを着せられ、湯気が立ちこめる中、椅子に座って窮屈極まりない思いをしている。まず初めに床屋は、小さな保護タオルを巻くために、指を首の周りに滑らせた―― その瞬間から、彼の絶大なる職権と心配りのために、そして店に置いてあるスミレと羊歯が放つ強い香りのために感覚が麻痺し、されるがままとなった。

 床屋から背中越しに話かけられて、その姿を鏡越しに目で追うのは、あまり礼儀正しくないし、彼を少々苛立たせてしまう―― 彼は何も言わないが、両手で頭のこめかみの辺りをはさみ、容赦ない穏やかさをもって、その位置を直す。それから、再び櫛とはさみのバレエが始まり、短い沈黙の後、会話も再開する。これはなかなか不思議な感じだ。鏡の中の相手と正面から向かい合っておしゃべりをしているのだ。本当にお互いの姿を見ているとも言えないし、敬服し合っているとも言えない―― もっとも、こんなうぬぼれ屋と、そのうぬぼれ屋の耳の周りで働きバチさながらの技を披露するこの職人を対置させること自体が、ぶしつけというものだろう。お互い、自分を見ずに、相手を見て、やがて会話に没頭するようになる。話題は大抵、当たり障りがなく、広い意見の一致がみられる教訓的なものだ。たとえば、サッカーにおけるディフェンスの発達について―― 「仕方のないことですよ、金が物を言うんです」

 しかし、肝心なのは一番最後だ。床屋の動きが緩慢になる。ナイロンの上っ張りから客を解放すると、有能な鞭打つ調教師のごとく、彼はその上っ張りを一振りする。柔らかいブラシで余分な毛を払い落とす。そして、ついに恐るべき瞬間。棚に近づいた床屋は鏡をつかむと、すばやく、ぎこちなく、三つの位置で動きを止める。首筋、左斜め後ろ、右斜め後ろ。そこで突然、被害の大きさを知ることに… そう、たとえ、ほぼ注文通りになっているとしても、実はもっと短くするつもりだったとしても、散髪したての髪型がどれほど間抜けに見えるかということを、毎回忘れてしまっているからだ。しかもこの災難を、ささやくような小声の「ウィ、ウィ」とう返事で受け入れなければならない。満足そうにまばたいたり、うなずいたり、時には「完璧だ」などと言って余計辛い思いをして、苦しい同意を偽善的に表さなければならない。料金はそのために払うようなものだ。

フィリップ・ドレルム『台無しになった、午後の休息』(LA SIESTE ASSASSINEE)より
t.p.訳
 右の頬がほんの少し、肩の方に傾ぐ。不思議だ。これは、かつて、恋人同士が言葉に表さないで相手に何かを求めようとするとき、そっと触れてほしいとか、キスをしてほしいとか、腕をまわして体を包んでほしいとか、そんなときにしていた仕草だ。うんざりしたときや、投げやりになったとき、ちょっとふてくされたとき、それから悲しいときにもこの仕草をした。首を軽く傾ける動作は、これらの感情をすべて表現していた。それが今では、一人、広場の真ん中や歩道を普段よりはゆっくりと、でも決して立ち止まらずに歩きながらこの仕草をする。浜辺やカフェのテラスに腰をかけてすることもある。こうして至るところで、そこに居ない誰かの声や存在を必要とする心の弱さを露呈している。

 言うまでもなく、これは携帯電話で話すためだ。内容は往々にして平凡で、「今、アムステルダム通りの角にいるんだ」とか、「あと20分で家に着くよ」とか、「野菜かごにはトマトとキュウリがあるわ」とかいうものだ。たぶん、ただ単に会話をスムーズにするために、首を傾けているのだろう。周りが騒がしいから電話を耳にぴったり押し当てて、コートの襟で被っているのだろう。もしくは、風を避けるために。そうに違いない…。きっとそうだ…。きっとそうなのだが、でもこれは、子供の頃、貝殻の底で鳴る海の音を聞くためにしていた仕草とそっくりだ。関係ない、それはよくわかっている。何しろこちらは、この緊迫した現代社会で精力的なコミュニケーションを行っているのだから。

 それにしても、孤独に歩道を行き来しながら、そろって首を少し傾ける様子ときたらどうだろう。みんな子供時代から放り出されて、ちょっと途方に暮れているかのようだ。

フィリップ・ドレルム『台無しになった、午後の休息』(LA SIESTE ASSASSINEE)より
t.p.訳

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