母の家

2012年1月1日

母の家

2011年12月18日

母の家

2011年5月3日
家族4人で。
母と弟と駅で待ち合わせ、手打ちうどんの店でお昼を食べて母の家へ。
私は煎茶の稽古へ。先生が私一人のために茶室の用意をしてくださっていた。


入試関連で休みの続くエネ。

本日は、母に誘われて、母お気に入りの大きな製菓食材店へ買い物へ行った。
お菓子作りが好きなエネは、バレンタインの友チョコ・義理チョコ制作計画を立てていたところだったので、ぴったりのお誘いだった。
「バレンタイン用の食材がたくさんあって、楽しかった~」
と、母に買ってもらった食材をいっぱい持って帰ったきた。

お買い物の後は、お茶をして、おしゃべりをしたとのこと。
母が夫の母へ贈ったプレゼントへの、義母からのお礼のカードがエネに託されていたので、それを渡し、書いてあるフランス語を訳してあげたとのこと。

帰宅後の母から電話があって、
「エネさんとのおでかけ、とても楽しかった♪」
と、大喜びだった。
義母からのカードにも喜んでいた。

地球のあっちとこっちに離れているお祖母さん二人を結びつけるエネは、いい孫だ。
そして、そんなエネを産んだ私は、実に親孝行だ(自画自賛!)。

母の家に

2011年1月3日
新年のあいさつに行った。

お寿司をたくさん取ってくれていて、弟も一緒に皆でたらふく食べた。

子供たちは母と弟からお年玉をもらった。

そして母からのプレゼント。
夫は、ブランド物の靴下を5足(←カシミヤが入ってる!すぐ穴あいちゃうのに~)。
5年生になったら宿泊行事のあるカデットは、レースの付いた花模様のタオルセット。
授業中冷えると言っていたエネは、バッグ入りの膝掛け。

私は…特に何も貰わなかったが、むくれてなんかいないよ?

母の年賀状に

2010年12月5日
載せる写真を撮るために、
エネ・カデを連れて母に会いに行った。

弟&母と駅で待ち合わせて、生姜料理のレストランに行ったら、閉まっていた…
前回来た時も閉まっていたので、よほど縁がないらしい。

仕方ないから、牛角でランチして、母の家へ。

お茶の先生の家が出来上っていたので、挨拶に行った。
花器や食器をたくさん下さった。
3世代が暮らせる家を作ったら、物を置く場所がなくなったとのこと。
頂いた素敵な菓子器をじっと見ながらカデットが、
「これに和三盆を入れたい」
と言ったら、和三盆が詰まっている蓋付きのガラスの器まで下さった。



「ドガ展

2010年10月17日
「ドガ展
に、行きたいんだけれど、誰か一緒に行かない?
誰も興味なければ、一人で行くけど」

と、母が言うので、カデットと夫がお供した。

横浜美術館で鑑賞後、中華街で食事をしたんだって。


母がドガを好きだなんて知らなかった。
私は、母のことを何も知らないのかもしれない。
娘たちが私のことを何も知らないように。
駅で待ち合わせ。
私、エネ、カデット、母、弟。
新聞の紹介記事を読んで以来、行ってみたかったショウガ料理のレストランに行ったら…。
休みだった…。
ので、通りかかりのうどん屋さんへ。
美味しかったし、雰囲気も良かったのだが、次回はリベンジしなければ。

食事の後、娘たちは母の家へ、フランスのお土産や写真や先日のお守りを持って行った。

私は電車に乗って仮住まいのお茶の先生の家へ。
大きな籠を使った、ピクニックのようなお手前を習った。

カデット、朝一番で髪を切る。

母の家の最寄りの駅で12時に待ち合わせ。
母、父、弟、ウチからはエネ、カデット、夫、私。
すごーく久しぶりの全員集合。
新しくできたという手打ちうどんの店へ。
お座敷でくつろいで、あれこれ喋った。
父と弟に誕生日のプレゼントを渡す。
店を出た後、私以外のメンバーは母の家へ。

私は煎茶道の稽古へ。
先生の家は本来、母の家からすごく近いところにあるのだが、
建て替えのために仮住まいをしている。
各駅電車に乗って次の駅で降り、先生から聞いておいた道順のメモとググって印刷した地図を持って、20分ほど歩いて、ようやく着いた。と、思ったら、お留守の気配。
3時ごろ行くと言ったのに、2時に着いてしまったせいだ。
炎天下で途方に暮れたが、近くの酒屋さんで待たせてもらうことにした。
そこには美しい花の写真のポストカードがあり、その地域に住む写真家の作品とのこと。
幾枚か選んで、レジでお金を払っていたら、先生の旦那様が駆け込んできた。
「よかった!帰っちゃってたらどうしようかと思った!」
????
旦那さんは私のメモとグーグル地図を握りしめていた。それが玄関の前に落ちていたから、私が来たんだと思って、慌てて辺りを探してたんだって。
ああ、人騒がせな私。おまけに、大事なもの、落してくなんて。
スパイや探偵にはなれないわ!

猫4匹と認知症のお母様と暮らす先生ご夫婦は、借り暮らしの家を探すのに苦労され、やっと見つけたのが、廃屋同然の木造家屋だった。
その家が、先生たちが暮らすようになってから、生き生きと美しくなったようだ。
お香がたかれ、花が活けられ、きれいな布や自然の風合いの雑貨が、古い家を魅力的にした。
他の生徒さん達は「トトロの家」と呼んでるんだって。
素敵なお軸をかけた2階のお茶室は、3方向の窓があけ放たれ、素晴らしい空間だった。廊下に置かれた即席の水屋も、知恵と工夫が凝らされ、感動した。
「どんなところでもお茶室になる」
というのが先生の口癖だが、それを具現化してくださった。

お冷茶のお稽古を2回して、お暇しようというとき、近所の方が駅まで行くというので、先生が私を送るよう、頼んでくださった。近所の方は、私にたくさん野菜を持たせてくれた。

一人で各駅停車に乗って、父や母や弟のことを考えていたら、無性に悲しいような、切ないような気持ちになった。

私が帰宅してから少しして、残りの3人がガヤガヤと帰ってきた。
「おばあちゃんのうち、どうだった?」
「西瓜食べて、おしゃべりして、トランプして、お庭の野菜もいで、いっぱいお土産貰った!」
「お母さん来なくてよかったよー。だって、トランプ、ジャイアンツの模様のトランプだったもん(弟は巨人ファン、私は中日ファン)!」
だって。あらそう。

孫の日

2010年5月5日
エネとカデットが二人で母の家に行った。

駅で父と母と待ち合わせ、レストランで昼食を食べて、母の家へ。

たくさん、果物やお菓子を出してもらったそうで、
お持ち帰りのお菓子や、お惣菜(タケノコとさつま揚げの煮物や、蕗)もいっぱい。
二人ともおこずかいをもらって、エネはそれプラス高校進学のお祝いも。
カデットは、もうすぐ誕生日なので、プレゼントのおねだりをしてきた。

持ち帰った柏餅を見て、あ、今日って、子どもの日じゃんと、気付いた私。

娘たちと私の両親が、いい時間を過ごせることが、私の一番の幸せかも。


年始の挨拶に行った娘たちから、私が忙しくしていることを聞いた母は、お惣菜を作って、毎日のように送ってくれていた。おでんや、牡蠣フライや、とんかつや、小豆や黒豆を煮たものなど…。
リウマチで手が不自由な上に、片目を失っている母にこんなことしてもらって悪いなぁと思いつつ、ありがたく頂いていた。
娘たちの、「おばあちゃん、美味しかったよ!」
という電話を喜んでいたようだったし。

しかし、あるときから、母の宅急便は届かなくなった。
が、私は自分のことにかまけて、母の様子をたずねる電話をしなかった。

そして。
1月21日の午前に、母の従姉妹から電話があった。
「お母さんのところに電話をかけたら、弟君に入院しているって言われたけど、
どこが悪いの?」
え…? 母が入院してる? 
あわてて、弟に電話した。
「お母さん、入院してるの?」
「うん…。でも、姉貴には知らせるなって、お母さんが言うから、言うつもりなかった。姉貴の仕事の邪魔をしたくないからって」
目の前が暗くなった。去年と同じパターンだ。
「お袋は、大丈夫だよ。肺炎みたいなもので、良くなってきてるし、来週には退院できるよ。だから、病院、行くなよ」
行くなよって言われたって…。
行かないわけないじゃん!

母が今回救急車で運ばれた病院は、ウチからは遠く、交通の便が悪いが、そんなこと言ってられない。慌てて駆けつけた私を見て母の方がびっくりしていた。
「どうして知ってるの?言わないでって言ったはずなんだけど?」

12日の夜に発熱し、13日の朝には体に全く力が入らず、起き上がることもできず、救急車を呼んだと言う。検査の結果、血液中に細菌があった。母は、リウマチのために免疫抑制剤を飲んでいるので、罹りやすいのだ。21日まで抗生剤の点滴をして、血液はきれいになったので、その後数日して再発しなければ退院できるとのこと。
私が会った時点ではもう熱も下がり、元気な様子を見せていた。その姿を見て安心したけれど、無性に泣けてきた。母が入院しても知らせないほど気を使う私の仕事って何なんだろう? 私の心、折れそう。
「もう、仕事、やめる。今引き受けている仕事が終わったら、もう、やめる」
泣きながらそう言ったら、怒られた。
「やめちゃだめ!お母さんは、○○ちゃんに仕事をして欲しいの。だから、今回だって知らせたくなかったの。お母さんのせいで○○ちゃんが仕事をやめたら、お母さん、逆に不幸だわ。もっと、心を強くしなさい。もう、お母さんは大丈夫だから、病院へは来ないでね。」

ウチへ帰ってその話を娘たちにしたら、彼女たちも涙を流した。そして、
「おばあちゃんって、素晴らしい人だね。そして、本当に、おばあちゃんの言うとおりだと思う。お母さん、仕事やめちゃダメだよ。」
と、言った。
確かに、この先私が老いたり、病んだりしたとき、そのために娘たちが仕事をやめなければならない状況だけは、避けたいと、私自身思うものね…。

そして、25日の血液検査で再発が見られなかったので、母は退院した。

歩々是道場

2009年11月22日
母の家の最寄り駅で12時半に待ち合わせて、和食の店へ。
父と弟も一緒。
そこで、母&長女・次女、父&長女・次女の写真を撮る。それぞれの年賀状製作用。
食事の後、長女は帰宅させる。テスト勉強のため!
私はお茶の先生の家に直行。
今日のお手前は大福茶。
大徳寺のお坊さんの書かれた短冊を下さる。「歩々是道場」

母の家に戻ると、
次女が、
「お母さん、話があるんだけど、怒らないって約束する?
イライラしないって約束する?」
と、切り出してくる。
な、なに?
それを聞くだけでイヤーな予感がして、イラッときた。
「あのね…お姉さんが、家に帰ったけど、鍵持ってなかったから、さっき、鍵を取りにきたの…」
「エッ???」
一回帰って、片道一時間以上かかる道程をも一度往復したのか…!!

怒る気力もないったら!



リハビリ病院から戻った母は、不自由なりに、そこそこ元気。
相変わらず、たくさんの食料品や雑貨をくれた。
そして、「入院先でできたお友達にも送りたいから、去年よりたくさん年賀状、お願いね」と。
了解でっす!


私たちが帰宅すると、
「今日はいっぱいウォーキングしたぁ!」
と、どこまでもポジティブな長女。もう降参でっす!

長女が母の見舞いに
昨日、長女が母の見舞いに行った。
初めて一人で新幹線に乗って、地元の鉄道に乗り換えて、1時間に1本しか来ないバスに乗って温泉病院へ。一人旅デビューと言ってもよかろう!

「平日は、温泉に入ったり、プールに入ったり、リハビリしたり、忙しいんだって。
お部屋の窓からは、富士山が見えるはずなのに、今日は雲がかかっていて見えなかった。それで、おばあちゃんがすごく残念がって、富士山に詳しいお友達を連れてきて、富士山の話をしてもらったのね。そしたら、その人は糖尿病で、採血しなくちゃいけないのにお部屋にいないもんだから、看護士さんが探し回っていて、おばあちゃんの部屋で見つけた訳なんだけど、『富士山の話をしている』って言ったら、そこへ道具を持ってきて採血してくれた」

「おばあちゃんといっぱい話をしたよ。私の将来の話とか、お母さんの話とか。
私が、一生独身でいたいって言ったら、『一度は結婚したほうがいい』って言われた。ずっと一人でいると、偏るからって。
お母さんも独身のときは、偏っていたけれど、パパと結婚して、あれでもずいぶん良くなったって。
お母さんって、よっぽど偏った人だったんだねえ」

な、なに?
私の悪口を言い合うためにわざわざ伊豆まで行ったのか?

でも、長女と母が、とても親密な時間を過ごしたからいいのだ!

いっぱいお土産を買ってきた。
「おばあちゃんがお金をくれて、駅のお土産屋さんで買いなさいって言うものをメモしたから」
次女には、ご当地キティちゃんのキーホルダーまであった!

本日より、伊豆の温泉病院に入院。
リウマチを病む体と弱った心を癒すために。


ナイチンゲールの写真
私の机の横の本棚に、グレーの額縁に収められた、ナイチンゲールの写真がある。
これは、母から貰ったもの。

昨日、母が看護学生だった頃や、看護婦になって働き始めた頃の話を聞いた。


母のふさがった目が、4~5日ほど前から、起床時に、1ミリほど開くようになったと言う。10分くらいで、またふさがってしまうのだが、その間はちゃんと見えるのだと言う(ふさがっている時に無理にまぶたを開いても、物が二重に見えてしまうのだ)。

これは、回復の前兆なのだろうか?


Mさま

2009年4月14日
Mさんが勧めてくれた神経内科へ母を連れて行ってまいりました。

リウマチによる細い血管の詰まりが原因だろうとのことでした。
やはり回復の見込みは難しいとのお話でしたが、T病院では説明のなかったところを詳しく教えていただけて、また、先生のお人柄がとても明るくて、行ってよかったと思います。

良い先生をお教えくださって、どうもありがとう。

t.p.

午後に、母がやって来た。
私は迎えに行くと申し出たが、母はそれを断り、バス・電車・バスと乗り継いで、一人でやって来た。
ふさがった片目には眼帯をして。

以前のように、リュックサックにはお菓子が詰まっていた。
夫の好きな黒豆の入ったお煎餅、私の好きな文明堂のカステラ…。
そして、今朝ストーブで煮たという小豆。
私はいつも母から小豆の煮たのを貰うと、すぐに冷凍庫にストックして、お汁粉を作るときに解凍して使っていた。入院中に最後のストックでお汁粉を食べながら、娘たちと、
「これが最後の、おばあちゃんのお汁粉になるかもしれないね…」
と、言っていた。
だから、小豆を煮る気持ちを取り戻してくれたのが、本当に嬉しい。

娘たちには、お小遣いの沢山入ったポチ袋と、図書カードそれぞれ5千円分。
私と夫にも、入院中にお世話になったからと、お礼の封筒が…。

そんなことしてくれなくていいのにと思う。
でも、そうしたいのが母の気持ちなのだから、ありがたく受け取ればいいのだと、自分に言い聞かせる。

そして、最近、仕事でかかるプレッシャーで弱っている夫に、
「パパ、偉くなんてならなくていいから、パパが苦しまなくてすむ生き方をしてね」
と、言ってくれた。

帰るときに、そろそろと、手すりにしがみつくようにマンションの階段を下りる母を見ると、日常生活の大変さが想像できた。
強風の中、桜の花のつぼみがほんの少しだけ開いた緑道を通って、私たちはいつものバス停まで母を見送った。

おととしの母の誕生日のプレセントに、私は、楕円形のオニキスのまわりに金の細工のしてあるブローチを用意していた。
のに!
そのブローチは、いざ、母に渡そうと思ったときに、なくなっていたのだ。
おかしい!
どこを探してもない!
私は、気が狂ったように探したのだが、見つからなかった…
むー、あたしもいよいよ、焼きが回ったかと思いつつ、母に詫びた。
「あら、いいわよ、いつでも。見つかったときに、ちょうだい」
と言われ、その後、何回か、
「ブローチ、見つかった?」
と、プチ催促されたが、やがて母も忘れてしまったようだった。

ところが!
数日前、私の机の上の一番上の引き出しの中から出てきたのだ。
当然、その引き出しだって、ひっくり返して探して、見つからなかったのに…
なぜ、今頃、突然、現れるんだろう…?

不思議で、ちょっと怖ような…

でもまあ、とにかく出てきたんだからと、おととい、食料品を送る宅配便の中に入れて母に送った。
「ステキなブローチね。でもホントに出てきたの?わざわざ買ったんじゃなくて?」
ちょっぴり疑いモードだが、その気持ちもわかる。
「ほんとに出てきたんだよ!」
「わたし、こんなブローチつけて、おしゃれして、出かけられる日が来るのかしら…」
「来るわよ! 4月のお祖母ちゃん(母の母)の法事のとき、つけてくればいいじゃない?」
「そうね、これ、つけて行くわね」
母は、その法事にはなんとしても出るつもりだったから、そのときにはおしゃれをして欲しいと思った。

それにしても。
こんなことってあるのねー。

お雛様を出す

2009年3月1日
昨日の夜、母から電話があって、訊ねられた。
「お雛様出した?」
「!!!!!!!」
すっかり忘れていた。

母の退院の翌日に、私はデパ地下へ行って、調理に手間のかからない保存のきく食糧をどっさり買って、母のところへ配送してもらった。その中に、雛あられも入れておいたのだ。

「雛あられを見て、思い出したんだけど、倒れた日の朝方、私、夢を見たのよ。○○ちゃんのお雛様の夢。深く、深く、あのお雛様の夢を見たのよ。あのお雛様のことを思い出すことなんか、普段全然ないのに、あのときは、お雛様の夢を深ーく見て、そして、起きたら左目が見えなくなっていた…。なんだか、不思議な気持ちがしてね、もしかして、お雛様の目がつぶれたりしてないかしらなんて思ってみたりして」

自分で雛あられを買っておきながら、お雛様を出すことは忘れていた。
私が小さい頃に父が買ってきてくれたお雛様。
さっそく今日の午後に、次女と一緒に出した。
お雛様たちはみんな、去年仕舞ったときのまま、きれいな顔をしていた。
次女が、
「おひなさま、目、つぶれていないね」
と言った。
「うん、だから、おばあちゃんの目も、きっとよくなるよね」
と、私が言ったら、
「よくなるよ!!」
と、次女は力強く言った。



今日の午前は、地域の餅つき大会で、私はゲームコーナーのダーツを担当した。小学校の委員をしていると、こうゆうの駆り出されてしまう。最初は屋外でやっていたのだが、雨が降り始めたので会館の地下室へ大移動し、そこはマジックショーを行っている場所でもあったので混乱状態となり、そんな中でゲームをしてお菓子をゲットしたい子供たちをさばくのは、困難きわまりなく。でも、うんと小さい子が、お父さんに抱っこされて、マグネットのダーツを真剣に「えいっ」と投げてくれたりなどしたので、いちおう苦労は報われた。ような気がして、終わって片付けて外へ荷物を運び出したら、雨はとっくに、すっかりと上がっていたのだった…。

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