右の頬がほんの少し、肩の方に傾ぐ。不思議だ。これは、かつて、恋人同士が言葉に表さないで相手に何かを求めようとするとき、そっと触れてほしいとか、キスをしてほしいとか、腕をまわして体を包んでほしいとか、そんなときにしていた仕草だ。うんざりしたときや、投げやりになったとき、ちょっとふてくされたとき、それから悲しいときにもこの仕草をした。首を軽く傾ける動作は、これらの感情をすべて表現していた。それが今では、一人、広場の真ん中や歩道を普段よりはゆっくりと、でも決して立ち止まらずに歩きながらこの仕草をする。浜辺やカフェのテラスに腰をかけてすることもある。こうして至るところで、そこに居ない誰かの声や存在を必要とする心の弱さを露呈している。
言うまでもなく、これは携帯電話で話すためだ。内容は往々にして平凡で、「今、アムステルダム通りの角にいるんだ」とか、「あと20分で家に着くよ」とか、「野菜かごにはトマトとキュウリがあるわ」とかいうものだ。たぶん、ただ単に会話をスムーズにするために、首を傾けているのだろう。周りが騒がしいから電話を耳にぴったり押し当てて、コートの襟で被っているのだろう。もしくは、風を避けるために。そうに違いない…。きっとそうだ…。きっとそうなのだが、でもこれは、子供の頃、貝殻の底で鳴る海の音を聞くためにしていた仕草とそっくりだ。関係ない、それはよくわかっている。何しろこちらは、この緊迫した現代社会で精力的なコミュニケーションを行っているのだから。
それにしても、孤独に歩道を行き来しながら、そろって首を少し傾ける様子ときたらどうだろう。みんな子供時代から放り出されて、ちょっと途方に暮れているかのようだ。
フィリップ・ドレルム『台無しになった、午後の休息』(LA SIESTE ASSASSINEE)より
t.p.訳
言うまでもなく、これは携帯電話で話すためだ。内容は往々にして平凡で、「今、アムステルダム通りの角にいるんだ」とか、「あと20分で家に着くよ」とか、「野菜かごにはトマトとキュウリがあるわ」とかいうものだ。たぶん、ただ単に会話をスムーズにするために、首を傾けているのだろう。周りが騒がしいから電話を耳にぴったり押し当てて、コートの襟で被っているのだろう。もしくは、風を避けるために。そうに違いない…。きっとそうだ…。きっとそうなのだが、でもこれは、子供の頃、貝殻の底で鳴る海の音を聞くためにしていた仕草とそっくりだ。関係ない、それはよくわかっている。何しろこちらは、この緊迫した現代社会で精力的なコミュニケーションを行っているのだから。
それにしても、孤独に歩道を行き来しながら、そろって首を少し傾ける様子ときたらどうだろう。みんな子供時代から放り出されて、ちょっと途方に暮れているかのようだ。
フィリップ・ドレルム『台無しになった、午後の休息』(LA SIESTE ASSASSINEE)より
t.p.訳
コメント