台無しになった、午後の休息
2008年7月3日 訳 昼食後、のんびりと横になって、雑誌に目を通す。いや、もっとおあつらえ向きなのは、長いこと読んでいなかった古い漫画本だろう。時間がぼんやりと引き伸ばされる。うだるように暑い8月のある日、午後の二時か三時。何かを無駄にしているという良心の呵責は、ひとかけらもない。ともかく、こう暑くては散歩もできない。鉤針編みのベッドカバーは足元へ押しやられ、体が軽くなり、ふわりと空中に浮かんでいるように感じる。世の中から離れて、幸福というより至福を味わい、自分の存在は無に等しい。近くの道を通る自動車の通行が、唯一、一日にリズムを与えている。曲がり角で、エンジンのうなり音が弱まるので、運転者が車を止めようとしているのかと思うが、その後、溶けたアスファルトの上で再びアクセルが静かに踏み込まれて、先ほどの感覚が打ち消される。みんな何処かへ行ってしまう。結構なことだ。しかしながら、世界から隔離されて、大きな気泡の中でぽっかり浮かんでいても、その曲がり角の減速がどうも気になり、ありもしない危険を想像してドキドキしながら、ビコの冒険シリーズ(アメリカの漫画)の灰色と赤の二色刷りを味わって読む。アメリカのちびっこが野球をする空き地には、古きよき平和がある。
これだけ多くの自動車が同様の減速をして曲がり角を過ぎて行くと、もはや、あらゆる危険があり得ないことのように思えてくる。しかし、まさにその時、何台目かの車が、少々大げさな速度の落とし方をする。エンジンが加速するまでの時間が長引く。最悪だ。安らかなエンジン音の代わりに、タイヤが地面をこする弾力的で従順な音がして、軟らかなアスファルトへの疾走は立ち消える。もうわかった。すべてが失われたのだ。だらだらとコーヒーを飲むことも、疲れたとか、ちょっと頭が痛いと言うことも、暑すぎると文句を言うことも、古い漫画本を選ぶことも。正当ではないが、まぎれもない午後の休息を手に入れるために払っていた細心の注意。それが今、偽善的な静寂の間に、すべてずたずたに切り裂かれた。
というのも、これから展開される儀式が全部わかっているからだ。タイヤの軋み音が和らぐと、人目をしのぶかのように車のドアをそっと閉める音がして、この訪問が不意打ちであることがわかる。抑えた声が聞こえてくるが、小さすぎて誰だかわからない。ここでもやはり、偽善は矛盾するらしい。待ちあぐんでいた客というのは、得意げに騒々しくやって来るものだが、それはどうしてなのだろう? 午後の休息を奪う客は、門の鉄柵の辺りで修道僧のように遠慮深くなるというのに。謙虚な慎み深さを持ち、サンダルのかする音をさせながら、平気でこの平穏な一日を踏みにじるというのに。
まもなく、休息を中断するという不機嫌さに加えて、このように不愉快な感情を抱いてしまったことへの後悔も覚えなければならない。この胸のむかつくようなとげとげしさの原因の半分は消化のもたつきで、もう半分は当然、身勝手で偏狭な性格だ。だって、親だか、友達だかが、不意を襲って喜ばそうとして来ているのではないか!?
間違いない。多分そうだ。もう少ししたら。しかし今は、こう言わざるを得ない。エンジンの意地悪な沈黙や、減速するタイヤのゴムが地面にするキスの音や、深い思いやりからそっと閉められる車のドアには、ナイフ殺人や完全策略の、優しさを装った残忍さがあるのだと。
フィリップ・ドレルム『台無しになった、午後の休息』(LA SIESTE ASSASSINEE)より
t.p.訳
これだけ多くの自動車が同様の減速をして曲がり角を過ぎて行くと、もはや、あらゆる危険があり得ないことのように思えてくる。しかし、まさにその時、何台目かの車が、少々大げさな速度の落とし方をする。エンジンが加速するまでの時間が長引く。最悪だ。安らかなエンジン音の代わりに、タイヤが地面をこする弾力的で従順な音がして、軟らかなアスファルトへの疾走は立ち消える。もうわかった。すべてが失われたのだ。だらだらとコーヒーを飲むことも、疲れたとか、ちょっと頭が痛いと言うことも、暑すぎると文句を言うことも、古い漫画本を選ぶことも。正当ではないが、まぎれもない午後の休息を手に入れるために払っていた細心の注意。それが今、偽善的な静寂の間に、すべてずたずたに切り裂かれた。
というのも、これから展開される儀式が全部わかっているからだ。タイヤの軋み音が和らぐと、人目をしのぶかのように車のドアをそっと閉める音がして、この訪問が不意打ちであることがわかる。抑えた声が聞こえてくるが、小さすぎて誰だかわからない。ここでもやはり、偽善は矛盾するらしい。待ちあぐんでいた客というのは、得意げに騒々しくやって来るものだが、それはどうしてなのだろう? 午後の休息を奪う客は、門の鉄柵の辺りで修道僧のように遠慮深くなるというのに。謙虚な慎み深さを持ち、サンダルのかする音をさせながら、平気でこの平穏な一日を踏みにじるというのに。
まもなく、休息を中断するという不機嫌さに加えて、このように不愉快な感情を抱いてしまったことへの後悔も覚えなければならない。この胸のむかつくようなとげとげしさの原因の半分は消化のもたつきで、もう半分は当然、身勝手で偏狭な性格だ。だって、親だか、友達だかが、不意を襲って喜ばそうとして来ているのではないか!?
間違いない。多分そうだ。もう少ししたら。しかし今は、こう言わざるを得ない。エンジンの意地悪な沈黙や、減速するタイヤのゴムが地面にするキスの音や、深い思いやりからそっと閉められる車のドアには、ナイフ殺人や完全策略の、優しさを装った残忍さがあるのだと。
フィリップ・ドレルム『台無しになった、午後の休息』(LA SIESTE ASSASSINEE)より
t.p.訳
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