仏教好きの次女であるが、彼女は、赤ちゃんのときにカトリックの洗礼を受けている。
洗礼を受けてしまったのだから、カトリック教徒なのである。本人が望む望まざるに関わらず。
なぜ洗礼を受けたかというと、彼女の父親がカトリック教徒だから。
結婚の前、私は教会の勉強会に通った。
聖書は、物語として、哲学としてなら、興味深いものだと思ったが、それを「信じる」という心境には、全く至らなかった。
しかし、この宗教は、割合と寛容なところがあって、誰も私に信者になれとは迫らなかった。
ただ、生まれてくる子供に、洗礼を受けさせることを司教に約束させられた。
私は、宗教を持つのが悪くないということを、夫を通して感じていた。
神を信じ、神と対話し、自分を高めることが、できる(場合もある)から。
だから、子供にとって、この宗教が生きるうえでの支えになるのなら、それはそれでいいんじゃないかと。
と同時に、その頃はまだ、自分が子供を生むかどうかなんてわかっていなかったし、子育てのイメージなんて、持てるわけないじゃん? みたいな感じだったよーな。気もする。
でまあ、能無しの私だが、生殖能力だけはちゃんとあったようで、女の子を二人生んだ。
宗教教育担当は、当然、夫。
長女は前半をフランスで、後半を日本でカテキズムを習い、7歳のときに初聖体を受けた。
当時の彼女は全く疑問を持たなかったようだ。
今は全く教会へは足を運んでいないが。でもまあ、初聖体までこぎつければ、あとは本人の問題だからね。
問題は次女。
小学生になる頃、教会へ行くのをボイコットするようになった。
その前に大病をしたのも関係あるかもしれない。
「神様がいるのに、どうしてあたしは病気になったの?」
「神様がいるのに、世界のいろんなところで、戦争があって、子どもたちが殺されるの、ヘンじゃない? カトリックの神様って、なにしてるわけ?」
無理して連れて行ってもロクなことはないので、夫は次女を教会に誘わなくなった。
初聖体も受けていない。
我が家だけなら、そんな、なぁなぁムードですんでいるのだが、問題は、フランスに滞在するとき。義母は敬虔なカトリック教徒。彼女の怒りの矛先は、私に向かう。
「あなたは結婚するとき、子供はカトリック教徒にするって、約束したでしょう?この約束は、とても重い意味を持つのよ」
「私は、次女が教会へ行くことを反対しているわけじゃありません。でも、私自身が信者じゃないから、彼女に教会へ行くよう、説得することはできません」
「私にとって、この宗教は、宝なの。生きていくうえで、とても大切な宝。その宝が、すぐそこにあるのに、孫に伝えてあげられないのが、残念でならない…」
「それ、私に言わないで、あなたの息子に言ってください」
「去年、夫が亡くなったとき、どんなに辛かったか…。私は、生きる気力を失いました。でも、教会と、司教様と、教会で出会った人々に支えられて、私は、善き人として生きて行こうという意識を取り戻せたのです(涙)」
「それは、よく、理解できます(涙…のふり)」
「このままじゃ、次女ちゃんは、人智を超える聖なる存在を知らずして、傲慢な人間になってしまう…」
「あ、それなら、大丈夫です。いつも私とお地蔵様に手を合わせてるし、神社やお寺、大好きですから」
「ええええ?カトリックでは、他宗教の偶像崇拝は禁止されているのよ!!」
「とりあえずミサに行っときゃ、お祖母さま的にはそれでOKなんだから、フランスにいる間だけ、黙って言うとおりにしなよ」
と、事なかれ主義の長女。
「いやー! だって、ミサって、立ったり座ったり、つまらないお話聞いたり、長いし!」
どこまでも反抗的な次女。
我が家の宗教戦争はいつまで続くのか?
洗礼を受けてしまったのだから、カトリック教徒なのである。本人が望む望まざるに関わらず。
なぜ洗礼を受けたかというと、彼女の父親がカトリック教徒だから。
結婚の前、私は教会の勉強会に通った。
聖書は、物語として、哲学としてなら、興味深いものだと思ったが、それを「信じる」という心境には、全く至らなかった。
しかし、この宗教は、割合と寛容なところがあって、誰も私に信者になれとは迫らなかった。
ただ、生まれてくる子供に、洗礼を受けさせることを司教に約束させられた。
私は、宗教を持つのが悪くないということを、夫を通して感じていた。
神を信じ、神と対話し、自分を高めることが、できる(場合もある)から。
だから、子供にとって、この宗教が生きるうえでの支えになるのなら、それはそれでいいんじゃないかと。
と同時に、その頃はまだ、自分が子供を生むかどうかなんてわかっていなかったし、子育てのイメージなんて、持てるわけないじゃん? みたいな感じだったよーな。気もする。
でまあ、能無しの私だが、生殖能力だけはちゃんとあったようで、女の子を二人生んだ。
宗教教育担当は、当然、夫。
長女は前半をフランスで、後半を日本でカテキズムを習い、7歳のときに初聖体を受けた。
当時の彼女は全く疑問を持たなかったようだ。
今は全く教会へは足を運んでいないが。でもまあ、初聖体までこぎつければ、あとは本人の問題だからね。
問題は次女。
小学生になる頃、教会へ行くのをボイコットするようになった。
その前に大病をしたのも関係あるかもしれない。
「神様がいるのに、どうしてあたしは病気になったの?」
「神様がいるのに、世界のいろんなところで、戦争があって、子どもたちが殺されるの、ヘンじゃない? カトリックの神様って、なにしてるわけ?」
無理して連れて行ってもロクなことはないので、夫は次女を教会に誘わなくなった。
初聖体も受けていない。
我が家だけなら、そんな、なぁなぁムードですんでいるのだが、問題は、フランスに滞在するとき。義母は敬虔なカトリック教徒。彼女の怒りの矛先は、私に向かう。
「あなたは結婚するとき、子供はカトリック教徒にするって、約束したでしょう?この約束は、とても重い意味を持つのよ」
「私は、次女が教会へ行くことを反対しているわけじゃありません。でも、私自身が信者じゃないから、彼女に教会へ行くよう、説得することはできません」
「私にとって、この宗教は、宝なの。生きていくうえで、とても大切な宝。その宝が、すぐそこにあるのに、孫に伝えてあげられないのが、残念でならない…」
「それ、私に言わないで、あなたの息子に言ってください」
「去年、夫が亡くなったとき、どんなに辛かったか…。私は、生きる気力を失いました。でも、教会と、司教様と、教会で出会った人々に支えられて、私は、善き人として生きて行こうという意識を取り戻せたのです(涙)」
「それは、よく、理解できます(涙…のふり)」
「このままじゃ、次女ちゃんは、人智を超える聖なる存在を知らずして、傲慢な人間になってしまう…」
「あ、それなら、大丈夫です。いつも私とお地蔵様に手を合わせてるし、神社やお寺、大好きですから」
「ええええ?カトリックでは、他宗教の偶像崇拝は禁止されているのよ!!」
「とりあえずミサに行っときゃ、お祖母さま的にはそれでOKなんだから、フランスにいる間だけ、黙って言うとおりにしなよ」
と、事なかれ主義の長女。
「いやー! だって、ミサって、立ったり座ったり、つまらないお話聞いたり、長いし!」
どこまでも反抗的な次女。
我が家の宗教戦争はいつまで続くのか?
コメント
初聖体と言うと”EL SUR"のあの象徴的なシーンを思い出します。
私の親友はもちろんカトリック信者で、若い頃はそうでもなかったのに
もう今では力説・・・そのうちシスターになるんじゃないかとバリ島出身の中国人である彼女のご主人と私は密かに賭ています(笑)
私のお気に入りは
『信じる者こそ救われる』
異国にいる頃、寮のミサであの丸くて白いパン(?)とワインを
欲しい~、と言ったら顰蹙を買いました^^
やはり、信仰の厚い方は、年を重ねると、その想いが強くなるのですね。
『信じる者こそ救われる』、
本当に、この言葉に尽きると思います…
私はもちろん食べたことはありませんが、長女によると聖体のパンは、
「パサパサして、不味い」そうです(笑)。
>「ええええ?カトリックでは、他宗教の偶像崇拝は禁止されているのよ!!」
>「とりあえずミサに行っときゃ、
うわぁ~、とっても「平均的日本人」だなぁ……☆
と、失礼ながら笑ってしまいました☆
w(^w^;)w いや日本人の「ヤオヨロズ神仏混淆アラーにキリスト風水ブードゥー効くならなんでもOK」思想。
実に平和的で、世界を救いますよ……(笑)
フランスにも、自らをブッディストと称して、ヨガを実践し、(間違いだらけの)漢字のTシャツを着て、私に向かって手を合わせてお辞儀をする若者がいたりしますから、まあ、いい感じでどっこいどっこいになってきたのではないでしょうか。
が!それはそれでいいのではないかと・・・
何かをどっぷり信仰する「文化」が私の中にありません(笑)
どの教えにも矛盾を感じることも多いのも事実で。
宗教が本物なら、戦争が勃発して罪のない人々が命を落としている理由を
きっちり説明してもらいたい。
単純にそう思います。
無宗教の私にとっては、おえらい経典より目の前の子どもの命の方が大切です。
信仰は自由ですから、ほかの人にとやかく言うつもりはありませんが、
勧誘されるのが何よりもきらいです。
そして、自分と違う宗教を信仰している人を批判したり、無宗教である人を
見下す目線がもっときらいです。
信じる者は救われる。
それでいいんです。
信じるも信じないも、あれもこれも信じるも、何も信じないも、
まったく自由。
私は、目の前にあるご先祖様の遺影が、神よりも仏よりもキリストよりも偉大に見えます。素直に手を合わせることができます。心から感謝できるのです。
私も、祖母のお墓に手を合わせているとき、一番心が安らぎます。自分を委ねられるといった感じでしょうか…
気がつくと、嬉しいこと、困ったこと、何でも報告している自分がいます。
「罪のない人々が戦争で命を落とすのを、何故神は見過ごすのか?」
という問いに、カトリック教では、理路整然とした答えがあります。
でもそれは、私にとっては馴染み難い論理です。
夫の家族は、子供たちに、カトリックという宗教を知った上で、信仰するかどうかを決めて欲しいようです。知らなければ、選択する自由もないというのが、彼らの考えなのです。
難しい問題です…。
そうなんですか。
知る自由と、知らずにいる自由は、カトリックにはないのでしょうか。
と、ひねくれる私(笑)
カトリックに限らず、伝統的な宗教は、おおむね、その国の社会と融合し、代々受け継がれてゆくものですから、親が子供にそれを伝えるのは、慣習に近い部分もあります。
実際、家族内の行事というレベルでは、カトリックの洗礼は日本のお宮参りに、初聖体は七五三に近いと、私は感じました。
日本に暮らしていれば、七五三や法要などの行事や、神社・仏閣・お墓の前で手を合わせるという行為は、当然のことのように身に付く習慣ですよね。
それと同じように、ヨーロッパのカトリックの国々では、カトリックの教え・行事は、身近なものです。
けれども、我が家の子供たち、特に次女は日本でしか暮らしたことがなく、フランスのそういった宗教感覚から遠いところにいるので、フランス側の祖母としては、非常に不自然さを感じているというわけなのです。
もちろん、国家レベルでは、フランスも日本と同様に信教の自由は保障されていますから、世界中の宗教を深く知った上で自分にぴったりなものを選ぶという「自由」もあるし、宗教は必要ないので知らないでいる「自由」もあります。
私が日記で記した愚痴は、日仏混合家庭の我が家ならではの悩みであるわけですが、これを否定的にとらえず、逆に子供たちの世界観を広げるような方向へもってゆけたらいいなあと、思い始めました。
m@kiさんのコメントをきっかけに、ほんのちょっぴり、自分の考えを深めることができました。ありがとうございます。
たしかに、もし私が熱心な仏教徒で、一家そろってヨーロッパで暮らすことになって、そこで生まれ育った子供たちが教会が好き、ミサに行きたいって言い出したら戸惑うかも(笑)
なんかへんなものですね。
私の方も、こちらでのやりとりのおかげでちょっと納得する部分がありました。ありがとうございました。これ以上はコメントは伸ばしたくないので、レスは不要です(^-^*)
おじゃましました。