ディズニーランドが、嫌いである。
英語で言うならhate、仏語で言うならdetesterという感じかしら。

何故、ああも大挙して押し掛けるのか、さっぱり理解できない。
人を馬鹿にしたようなアトラクションに、我も我もと争うように乗りたがる。そのためには長時間並ばなければらず、それを避けるための券を手に入れるのに、また長時間並ぶ。
よっぽどみんな暇なんだね。それとも、これって、忍耐力アップのための修行?
飯も不味いし、それをゲットするために並ぶのも苦痛。

長女が幼稚園の頃、名古屋から来た友人一家が、「どーしても行きたい」と言うので、仕方なく行って、ホント懲りた。
長女には、「ウチは、子供をディズニーランドへつれてゆくのは、一生に一回。あなたを連れてゆくことは、今後、2度とないから」と、よーく言い聞かした。

さて。
長女と6歳違いの次女が、幼稚園に行くようになると、周りのお友達がみな、ディズニーランドとやらに行っていることに気付き出した。それについてたずねられるたび、私は、「さあ?それ、なんだろね?」
と、白を切りとおした。
のだが。
去年の冬、長い入院生活中、けなげに治療に耐えていたとき。
「お母さん…」
「なに?」
「元気になったら、ディズニーランド、連れてってくれる?」
え?と、思ったけど、さすがにこれを拒絶するほど、私は鬼母ではない。
「ウン、ウン、連れてくよ。だから、元気になってね」
やせ細った彼女の手を握って、答えた。

それから数ヶ月。
次女は退院し、おおむね元気になった。
「お母さん、いつディズニーランド連れてってくれるの?」
「え?それ、何の話?」
これには、長女が、激怒した。
「お母さん、入院してたときの約束、守らない気!?それに、ウチの子供は、一生に一回は、ディズニーランド、行く権利あるんでしょ?あたしは行かなくていいから、○○ちゃんだけは、連れてって!!!」

というわけで、去年の秋、小学校の運動会の振り替え休日の平日に、夫を巻き込んで、3人で行った。やっぱり、つまらなかった。ゲロ吐きたくなるくらい、たくさんの人がいた。苦行だった。私が文句ばっかり言っていたので、次女も懲りたらしく、また行きたいとは決して言い出さない。
何度も何度も嬉々として行く、リピーターという人たちがいるが、彼らの思考回路と神経の構造は、私と違うのだろう。

ちなみに、その日、中学生の長女は普通に学校へ行っていたわけだが、「今日、ウチの親と妹がディズニーランド行ってるの」
と、友達に言ったら、
「えーっ、なんで、あなたは連れて行ってもらえないの?やっぱり、あのお母さん、本当のお母さんじゃなかったのね…ぜんぜん、顔、似てないもんね」
と、言われたらしい。
つまり、ディズニーランドへ家族揃って行くってことが、日本の家庭の幸福の象徴なんだね。

もちろん長女だって、私の実の娘なのだが、あまり似てないので、あちこちで継母疑惑はささやかれている…
次女が眠りにつく前のひととき、本を読んでやる。
ここの所ずっと、ケストナーだった。
「点子ちゃんとアントン」、「エーミールと探偵たち」、「エーミールと三人のふたご」、「二人のロッテ」。
ところが、「飛ぶ教室」を読み始めてから、どうも、具合が悪い。おもしろくないらしい。訳者のせいなのか(今までずっと読んでたのは、池田香代子訳、今回は高橋健二訳)、それともこの話が、まだ7歳の彼女には難しいのか、はたまた本当に面白くないものなのか。

そこで、路線変更。
「日本人なんだから、毛唐の書いたものばっか読んでないで、やっぱり日本人の書いたもの読も。」
(もっとも、彼女は、半分フランス人なのだが!)
というわけで、宮沢賢治。
童話集を読んでやると、くすくす笑う。言葉のリズムが面白いらしい。
でも、これって、日本語って言うより、宮沢賢治語だね。
そして、私にはちょっと馴染みにくい世界観。ケストナーのほうが、しっくりくるなあ。

長女が、
「国語の先生が、宮沢賢治好きでね、『賢治はやっぱりいいなあ』ってよく言ってるよ」
おいおい、名前、呼び捨てかよ。

そーね、でも確かに、日本人て、どういうわけか、ある種の文学者のことを、名前で呼ぶね。賢治、中也、藤村、漱石、鴎外…
なぜかしら?苗字より名前に特徴がある場合にそうなるのかね?

本日は、次女の小学校の防犯パトロールに参加。

1 2 3 4 5 6

 

最新の日記 一覧

<<  2025年5月  >>
27282930123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索